2021年 第22期
宮本先生は、お隣の島根県松江市のご出身。ご多忙であることは承知のうえで、「やよい塾でお話していただけませんか」とお願いしてみたら、「いいですよぉ~」と快諾してくださり、小踊りしたのが2019年の年末。2020年の5月に予定していたのですが、新型コロナウイルスの流行で、やよい塾も休講せざるをえませんでした。それが今回、ようやく実現しました。オンライン講座ということで、米子にお迎えできなかったのは残念ですが、お話はバッチリ!
11月6日「山陰地方における縄文土器研究の現状と課題
~主に研究の視点と方法について~」
講師:柳浦俊一氏(島根県埋蔵文化財センター)
柳浦さんは、数少ない山陰の縄文時代研究の第一人者。20期で山陰の縄文集落のお話をきいて、とてもとても面白かったので、再度ご登壇をお願いしました。
今回は、縄文土器の話。それも、縄文土器そのものというよりも、編年、型式論、層位論など、研究者は縄文土器のどんなことをどんなふうに研究して、何を知ろうとしているのかという、プロの世界の話。まるで、柳浦さんの研究活動のドキュメンタリー番組をみているような、いつもと違うワクワク感にあふれる講義でした。
レジメをみたら、編年表とか土器の図面とかが並んでいて、まるで大学の考古学の専門課程の授業のよう。難しそうで、大丈夫かなぁと少し心配でしたが、それでもお話が始まると、土器の文様がどんなふうに変化していくのかを、クイズのように一緒に考えてみたり、型式論でも層位論でも、間違って認識した例があることを教えてもらったりして、おもしろくて塾生さんたちも前のめりで聞いておられました。すべてを理解できたとは思いませんが、それでも、プロの研究者がどんなところを見ておられるのか、どれほど熱心に細かい観察をして、どういう発見をしておられるのかを垣間見させていただいて、今度から土器の文様や形をみる時には、いままでより少し研究者になったつもりで見てみようと思いました。また、夢中になってそういう話をする柳浦さんの楽しそうな姿を垣間見て、土器のカケラに夢中になる考古学者の気持も、わかってもらえたと思います。
やよい塾は、いつも「わかりやすく」を基本にしているのですが、たまにはこんなふうに「わからない、むずかしい」研究者レベルの話をしていただくのも、いいのかなと思いました。以前、坪井清足先生・佐原真先生・金関恕先生の座談会で、先生方の話が盛り上がりすぎて、とても専門的な内容に走っていってしまったことがありました。その時、さすがに市民の方々はついてこれなかっただろうと恐る恐る声をかけたら、「いや~、さっぱりワケがわからなかったけど、実におもしろかった!学者がどんなふうに学問と向き合っているのかという姿を見せていただいて、感激した」と言われて、なるほどと思ったことがありました(その内容は『考古学今昔物語』として出版)。
その時のことを思い出しました。柳浦さん、ありがとうございました。また山陰の縄文の話を聞かせてください。
12月4日「弥生時代の始まりと弥生時代社会の形成」
講師:宮本一夫 九州大学教授
弥生時代の始まりといえば、日本列島における稲作の始まり。それは、いまの私たちの生活の直接の出発点でもあります。稲作は、中国の長江中・下流域で始まり、朝鮮半島から北部九州にやってきた渡来人たちが伝えました。かれらは、いつ?そして、なぜ?海を渡って九州島にきたのか。
弥生時代の始まりの年代について、2003年に国立歴史民俗博物館の研究チームが放射性炭素年代測定法による分析によって「紀元前10世紀」という年代がでたと記者発表し、「弥生時代の始まりが500年古くなった」と大きく報道されて、学界は大騒ぎとなりました。「古すぎる」「そんなはずはない」という反論の嵐ではありましたが、その議論のなかで、多くの研究者が弥生時代の始まりの年代を再検討する研究にとりくみました。その嵐のど真ん中にいたお一人が宮本先生です。
稲作をはじめ、さまざまな文物が大陸から伝わってきた弥生時代の研究は、日本列島の中だけでなく、大陸の状況を知っておかねばなりません。中国や韓国に留学されていた宮本先生の脳みそは、東アジアの空気が充満しています。その広い視野と知見から、弥生時代の始まりを時間的・空間的に整理整頓して、お話してくださいました。
みなさんがよく見かける年表で、弥生時代の始まりは、斜めの線が引かれていると思います。あの線が斜めになっているいることは、時間的にも空間的にも意味があるわけです。「弥生時代の始まり」がいつかという、わかっていて当たり前みたいに思えることが、意外に難しい問題であるということを、今日の受講生はよくわかったと思います。ちょっと鼻タカになる、ちょっと考古学徒になった気分になる、そんなお話でした。
今回は、北部九州における稲作の始まりについての話が中心で、それが他地域に広がっていく、というところで終わりました。次回は、ぜひ山陰の弥生時代の始まりについてお話してください、とお願いをし、「はい、ぜひに」とお約束していただいて、楽しい講義は終了!弥生時代の稲作文化の展開の様子をもっともっと知りたくなりました。宮本先生、次回もよろしくお願いします!
10月2日「古代の米子と石川年足」
講師:内田律雄氏(元島根県教育委員会文化課)
やよい塾では、すっかり常連講師のお一人といえる内田律雄先生は、もちろん考古学がご専門なのですが、民俗学や文献史学にもお詳しく、遺跡や遺物をさまざまな角度から見せてくださいます。そんなふうにご紹介したら、「モノだけでなく、モノのむこうに人間が見えた方が面白いでしょ」とのこと。賛成!そして今回も、そうやって、独特の内田ワールドに私たちを誘ってくださいました。
国史跡・上淀廃寺といえば、法隆寺と並んで日本最古の壁画寺院。そして、金堂の横に塔が3つも並ぶ、異例な伽藍配置をもつことでも注目されました。さらに、大正時代から「変わった文様の軒丸瓦」も有名で、「上淀廃寺式瓦」と呼ばれていました。普通、軒丸瓦の文様は、川原寺式とか山田寺式などというように、一定の系譜がたどれるものなのですが、上淀廃寺式のデザインは他に例がなく、どう位置づけていいやらよくわからない瓦です。それがお隣の島根県安来市にある野方廃寺という寺跡でも出土しています。野方廃寺は、『出雲国風土記』(733年完成)にでてくる「教昊寺」とみられ、風土記編纂時の人物の祖父が建てたと書かれているので、だいたいの創建年代がわかります。内田先生は、上淀廃寺の瓦よりも教昊寺で出土した瓦の方が少し古いとみておられ、本来は教昊寺式瓦と呼ぶべきとのこと。それはともかく(と控えめな内田さん)、上淀廃寺では、「癸未」年(683年)という年号が刻まれた瓦が出土しており、これが創建年代と考えられています。
さて、石川年足(688~762)といえば、735年に出雲国司として赴任してきた人です。この人は、蘇我馬子の系譜に連なり、仏教に熱心な一族でした。さらに、教科書にも出てくる藤原仲麻呂(恵美押勝)の片腕として活躍したという、中央でもなかなかの実力者であったようです。年足は、739年には出雲での善政を顕彰されています。741年に聖武天皇は国分寺・国分尼寺の建立を命じます。そして749年、各地の国分寺を早く造らせるために、天皇は年足にまた地方赴任を命じます。年足がどこに行ったかはわかりませんが、内田先生は、年足はまた出雲に来たのではないかと考えておられます。そして、年足は、上淀廃寺や教昊寺などを見ていたはず。隠岐国分寺は、教昊寺式の瓦を採用しています。766年(天平勝宝8年)、聖武天皇が亡くなって、天皇が使った物を26ケ国の国分寺に分け与えています。この時に、隠岐国分寺は入っていない(完成していない)。隠岐国分寺の瓦は、756年以降に完成した時に、なぜ教昊寺系の瓦を採用したのか。それは、国分寺建立推進のために出雲を訪れた石川年足が指導したのではないか。因幡国分寺も教昊寺系の瓦を使っています。上淀廃寺くらいに古い時期のものなので、もしかすると因幡国分寺の前に、教昊寺系の瓦を使った古い寺があったのではないかなど、いろいろなことが考えられます。
最後に、妻木晩田遺跡のふもとにある晩田31号墳の話をします。これは古墳のまわりに外護列石をもつ方墳で、石室は壊れていますが、玄門の扉石に仏像の舟形の光背のような浮彫がありました。出土した須恵器は7世紀の中頃、もしかすると後葉になるかもしれないけれど、古墳の最終段階です。実用品とは考えにくいほど小型の須恵器であり、仏具ではないかと思われるものです。ここに最後に葬られた人が、上淀廃寺を造った人ではないかと思います。教昊寺の周辺には、こういう終末期の古墳はありません。それは、『風土記』によると、教昊寺を造ったのが僧だと書いているので、もしかすると火葬されているのではないかと考えらる、ということです。
~ということで、上淀廃寺の時代の淀江が、ますます面白くなってきました!晩田31号墳は、そこだけ道路をわざわざカーブさせて保存されました。内田先生のお話で、晩田31号墳こういう重要な意味をもつことがわかったので、本当に壊されなくてよかったと、改めて当時の関係者の皆さんに感謝!です。内田先生、貴重なお話、ありがとうございました。
9月4日「荒神谷遺跡の青銅器をめぐって」
講師:平野芳英氏(荒神谷博物館学芸顧問)
大量の銅剣が出土して世間を驚愕させた荒神谷遺跡の発見から30年近く経ちます。遺跡は整備され、新たな発掘情報があるわけではありません。博物館が開館した頃は、大変だろうな~と思っていましたが、そんなことは学芸員さんの熱意とあくなき学究心次第なのだという、お手本のようなお話でした。
前半は、あの膨大な銅剣をどんな手順で埋めたのか、埋め方にどんな特徴がみられるのか、埋める時にどんな儀式をおこなったのか、埋めた後の遺跡の周辺はどんなふうだったのかetc.・・・平野さんが発掘したわけではないのですが、ぶ厚い発掘調査報告書や関連する調査報告書を徹底的に読み込んで、発掘担当者やいろいろな研究者の見解をおりこみながら、まさに微に入り細に入り!まるで青銅器を埋めている現場に立ちあっているような臨場感のあるお話を聞くことができて、ものすごく得した気分。ここまで発掘調査報告書を読み解き語れるのは、荒神谷博物館の主だからこそ。そして、それを可能にした、精度の高い報告書を作成された、当時の担当者の皆さんにも敬服するばかり。平野さんによると、報告書のなかには、まだまだ多くの気になるデータがたくさんあるそうです。これからも、荒神谷遺跡の新たな事実が浮かび上がってくるかもしれませんね。
講義の後半は、博物館で予定されていた、不弥国の特別展の図録から。博物館では、7年前から、『魏志』倭人伝にでてくるクニグニを順番にとりあげて、特別展を開催しています。「出雲と北部九州といって、北部九州も一様ではないからね」と。それで、今年は不弥国。
荒神谷遺跡の銅矛に、佐賀平野東部で作成された綾杉文の研ぎわけのある銅矛が含まれていることは、よく知られています。その銅矛が、佐賀平野からどういうルートで出雲まで運ばれたかは、誰も深く追求したことがありませんでした。
不弥国と想定される福岡県飯塚市には、近世の長崎街道が通っており、それが佐賀平野に繋がっています。平野さんは、この陸路に注目されました。出雲の猪目洞穴で出土したゴホウラ貝製の腕輪は、飯塚市の立岩堀田遺跡の出土品と類似する「立岩型」。謎とされてきた銅剣の「×」印は、あちこちで類例がみつかりはじめています。その1例が、飯塚市にもありました。おお!
多くのことを学ばせていただいた充足感を噛みしめています。ありがとうございました!
7月3日「中国古代の皇帝陵・陵墓を考える〜始皇帝陵から曹操墓まで」 講師:小澤正人氏(成城大学教授)
むきばんだやよい塾はじまって以来、初めての中国考古学のお話でした。中国大好きの小澤先生が、皇帝陵の話を、現地を訪れた時のエピソードをまじえながら、臨場感たっぷりにお話してくださいました。
有名な秦の始皇帝陵の兵馬俑についても、歩兵隊・弩弓兵・騎兵・戦車兵で構成された機動部隊・司令部とあって、秦の実際の軍団構成を再現したものであることや、墳丘周辺の寝殿・便殿などの建物群、食官という食事を掌る部署など、内城・外城に囲まれたなかに、さまざまな付属施設があるなど、改めてそのスケールの壮大さを目の当たりにしました。
前漢の皇帝陵は、基本的に始皇帝陵を踏襲しながら、皇帝陵と皇后陵が並置されるようになるなどの変化も。また始皇帝陵のように等身大・実物大の器物の副葬はなくなって、経費は削減されたよう。後漢になると、皇帝陵は円墳から方墳となり、墓壙への墓道が4方向から1方向に減るなどの変化がありました。中国の皇帝陵について、こうした大きな流れで変遷を追って説明していただき、とても興味深く、あっという間に時間が過ぎていきました。
大阪の百舌鳥・古市古墳群が世界遺産をめざしていた頃、「大山古墳は世界三大王陵」として、秦の始皇帝陵、エジプトのピラミッドと並べて、墳丘の規模の比較をする図をよくみかけましたが、始皇帝陵もピラミッドも、墳丘は全体の一部にすぎず、全体の規模は、墳丘しかもたない日本の古墳とくらべものにならないほど巨大なものです。ちょっと無謀な比較図だったということが、よ~くわかりました
中国のダイナミックな考古学のお話、また聞かせていただきたいと思いました。小澤先生、いずれまたご登壇くださいね。
6月講座 「因幡・伯耆と畿内を結ぶ道を考える」
講師:禰冝田佳男氏(大阪府立弥生文化博物館館長)
禰冝田先生には、むきばんだやよい塾の第2期(2001年)という、ごく初期に、講義をしていただいています(右の写真)。当時は、文化庁にお勤めで、保存問題で揺れに揺れた妻木晩田遺跡についても、ご心配いただいていました。なつかしい!その後、2019年には、やよい塾20周年記念のサハラ記念日特別講演や、フォーク歌手の小室等さんとのトーク&コンサートにも、ご登壇いただくなど、たびたび、おつきあいいただいています。
今月の禰冝田先生
2001年の禰冝田先生
今回のお話は、弥生時代の銅鐸、生駒山西麓土器、二上山のサヌカイトなどのあり方から、山陰と畿内を結ぶ「道」が見えてくる。それは、龍野のあたりから、佐用➡千代川というルートです。そして、そのルートにのって、因幡地方に前方後円墳が出現するのではないか。
畿内から山陰へというだけでなく、山陰から畿内へむかう流れもあったことは、山陰系土器が教えてくれます。たとえば、神戸市の西求女塚古墳(全長約98mの前方後方墳)や処女塚古墳(全長約70mの前方後方墳)などの古墳や中河内地域などの遺跡で、山陰系土器が出土しています。
モノから人々の生活や社会の様子を復元するのが考古学。モノの向こうに人が見えてくる、ということを実践的に学ばせていただいた講義でした。禰冝田先生、ありがとうございました。
4月講座「むきばんだ史跡公園職員が語る妻木晩田遺跡入門」
講師:河合 章行氏(鳥取県立むきばんだ史跡公園)
「むきばんだやよい塾」のスタートは、やっぱり妻木晩田遺跡から始めたい。年度末・年度初めの大変お忙しいなか、そんなワガママを聞いて下さった優しい河合さんは、妻木晩田の調査から整備・活用まで、長年にわたり関わってこられた経験と、いつもながらの「がっぷり四つ」の正攻法で、妻木晩田遺跡の過去・現在・未来を熱く語ってくださいました。質疑応答では、対面の塾生だけでなく、オンライン塾生も積極的に質問をして、どんどん話がおもしろくなっていく・・・というところで、時間オーバーも限界。「なぜ山の上にムラをつくったのか」について、妻木晩田遺跡が発見され、保存が決まった20年前には「倭国の乱」とされる戦乱の緊張状態の下で、かくれ里のように山の上にのがれたのだ、という説がよく聞かれ、県の展示館でも戦いの場を再現した模型が展示されていました。しかし、いまはそういう説もあまり聞かなくなりました。なぜかというと、妻木晩田遺跡では、あれほど大量の鉄器が出土しているのに、武器といえる鉄器はとても少なく、大半が農・工具です。戦乱の緊張状態なんて、あまり感じられません。河合さんは、弥生時代中期末の寒冷化にともなう海退現象によって、青谷上寺地遺跡でみられるような飛砂の被害などがあり、低地が住みにくくなって、山の上にあがったとみておられるとのこと。弥生後期になって、集落が山の上にあがるというのは、妻木晩田遺跡だけでなく、西日本各地にみられる傾向です。河合さんの説が有力だろうと思います。また、山の上の集落は、平野の水田と離れていて不便だったのではないかという質問についても、妻木晩田遺跡とわりと近いところに水田があった可能性があるとのこと。また妻木晩田を歩いてみたくなりました。
貴重なお話を、ありがとうございました!
2020年 第21期
2月講座 「勾玉のはなしー魂結びの系譜」
講師:木下尚子氏(熊本大学名誉教授)
木下先生といえば、貝の研究者として有名なのですが、山陰にはあまり貝輪の資料が多くないので、玉なら馴染みがあるだろうという先生のご配慮で、このテーマ。最初は「木下先生が勾玉?」と思いましたが、お話が始まると、もうグイグイ引き込まれていきました。
縄文勾玉のムニュムニュした形が何なののかなんて、「わかるはずがない」と思っていた自分が恥ずかしい。先生は、持ち前の精緻な観察力で、縄文時代の牙玉と勾玉を克明に観察し、傷みたいな小さな刻みも見逃さず、ムニュムニュの正体をつきとめた!「不定型な縄文勾玉は、牙玉を紐でグルグル巻きにした状態を模したもの」、魂を“緊縛”するのです。そしてそれが弥生時代の定形勾玉、不思議な刻み目をもつ「丁子頭勾玉」の祖型である。さらにそれが北部九州でガラスやヒスイで作られるようになって、勾玉の意味も変化して、大きさ・材質で差別化され。。。。ああ、書きたいことがありすぎて、書ききれない(;^ω^)
今回、コロナ対策で緊急事態宣言のもと、オンライン講義でした。そして、オンラインで先生の大学の教え子である12月講師の河合章行さん(むきばんだ史跡公園)と、研究活動でご縁のある石川県小松市教育委員会の下濱貴子さんがオンラインで参加してくれて、玉の研究者同士の意見交換も興味深かったです。さらに下濱さんは、小松市の埋蔵文化財センターの展示室から、小松市出土の弥生時代、古墳時代のヒスイの勾玉をはじめとする玉類を中継で見せてくれて、出雲の花仙山の石で作ったメノウの勾玉や、勾玉の首飾りを着装した人物埴輪なども見ることができました。オンラインのおかげで、とても贅沢な講義となりました。
途中、会場のwifi環境の不具合で、木下先生ならびに会場の受講生さんにご迷惑をおかけしたことを、お詫びします。次回は、ちゃんと改善した環境でおこないます。よろしくお願いします。
2019年
2月講座
「国の華咲く 古代の伯耆~奈良時代の寺院を中心に~」
講師:根鈴輝雄氏(倉吉博物館館長)
◆「ぼくの話は物語になっています。だから、途中で居眠りをすると、わからなくなりますよ~。がんばって聞いててくださいね」って、意表を突かれたスタートに、塾生さん達ちょっと緊張(;^ω^) でも、根鈴館長の楽しい話術にぐいぐい惹きこまれ、居眠りなんかする人はいませんでした。◆古代のお寺は、たんに宗教の拠点だけでなく、防衛の拠点、先進文化の拠点です。そういうお寺が、山陰で初めて建てられたのが、倉吉市の大御堂廃寺(国史跡)。山陰最古というだけでなく、国内では珍しい新羅的な品物や、平城宮とここにしかないという鬼瓦があるなど、タダモノではないお寺です。それは、朝廷の肝いりでつくられたお寺だから、と根鈴館長。「確証は何もありませんけどね~」と言いながら、当時の社会情勢などから、さもありなん、と思わせる状況証拠が次々とくりだされました。年表って、一見退屈に思われがちですが、館長の物語を聴きながら追いかけると、年表が楽しく見えてきましたね。
◆奈良の飛鳥寺、川原寺など主要なお寺の特徴や、伽藍配置の意味や変遷とか、同じ文様の瓦をもつ意味とか、古代のお寺の基本的なことも教えていただいて、お得感満載のお話でした。今度は、倉吉博物館で展示品をみながら、館長レクチャーを聴きたいなぁ~!
2018年
◆11月 講師:橋本裕子氏「日本人のルーツ・日本最古の人骨から現代(人骨)まで」
◆昨年に引き続き、塾生からのリクエストにより、このテーマでお話いただきました。今回も、キャリーバックの中から標本人骨くん達がゾロゾロと登場!人骨という視点から、長い人類史を紐解き、日本列島に住みついた人々について考える~いつもの講義とは違った視点で、われわれの原点を確かめることができました。
◆大陸で鍛えられた渡来人は免疫力が強いけれど、ずっと島で暮らしていた縄文人は免疫力が弱かったのだそうです。ヤバイぞ、縄文人!
◆青谷上寺地遺跡でみつかった結核は、弥生時代唯一の事例で、北部九州でも未発見だとか。そうすると、青谷上寺地遺跡の結核は、どういうルートで伝わったのか。人と人の接触でうつる感染症にかかった人骨をたどっていけば、日本列島に渡ってきた人々のルートが見えてくる!おもしろい切り口ですね。橋本先生の研究の成果が楽しみです。